旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年08月10日 『フェノロサが来日する(1878 明治11年) 』
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*日本美術の研究で名高いアーネスト・フェノロサは1878年の今日、25歳の若さで来日、できたばかりの帝国大学(東京大学の前身)で教鞭をとった。彼が教えたのは哲学や政治学、経済学で、学歴からいっても決して美術を専門とする学者ではなく、美術はあくまで趣味であったといわれる。しかしその「趣味」が日本に来てからみるみる深化して本物になり、のちには世界に向けて日本美術を紹介する役回りを演じるのだから人の世は面白い。美術に造詣が深いことを認められたフェノロサは1884年、文部省に命じられて岡倉天心らとともに関西の社寺をめぐり、古美術の調査を行なう。法隆寺を訪れた際、秘仏・救世観音像(現・国宝)の入った厨子を強制的に開けさせ、包み布をはがして像を白日の下にさらしたというエピソードはあまりにも有名である。また同年「鑑画会」を創設して日本美術の研究を進め、狩野芳崖、橋本雅邦らに影響を与えた。岡倉天心とともに東京美術学校(東京芸術大学の前身の一つ)創立のため奔走し、開校後は美術史や審美学を講じた。1890年に離日したのちはボストン美術館の東洋部長として、日本美術の収集と紹介にあたった。「フェノロサ」という姓の響きから南欧の人と思われがちだが実はアメリカ生まれである。父親はスペイン人の音楽家であった。仏教に帰依したフェノロサの墓は滋賀県の寺にある。
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- 2016年08月09日 『古橋広之進が競泳で世界記録を上回る(1947 昭和22年) 』
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*リオデジャネイロで行なわれているオリンピック大会の競泳、男子400メートル個人メドレーで萩野公介・瀬戸大也の両選手がそれぞれ金・銅のメダルを獲得したというニュースが飛び込んできた。実は、彼らの大先輩にあたる元日本水連会長古橋広之進(ふるはし・ひろのしん)が世界記録を上回る成績をあげ、日本中を沸かせたのが、69年前の今日である。第2次大戦の敗戦直後、日本大学の学生だった古橋は1947年8月9日に行なわれた日本選手権の400メートル自由形で、4分38秒4という記録を出した。翌48年の同選手権ではさらに、400メートル自由形で4分33秒4、1500メートル自由形で18分37秒0という驚異的な記録を打ち立てる。これらはすべて世界記録を上回っていたのだが、日本が当時、国際水泳連盟(FINA)からしめ出されていため公認されなかった。しかし古橋の活躍は、戦後の混乱の中であえぐ人々に希望と励ましを与え、国民的な応援を受けた。日本のFINA復帰(49年6月)直後に招かれて出場した全米選手権が、古橋にとって世界への公式デビューとなる。8月16日、400、800、1500メートルの各自由形で世界新記録を樹立、世界をうならせるのである。このときアメリカ人が彼を称賛してつけたあだ名 the flying fish of Fujiyama は「フジヤマのトビウオ」という流行語となった。
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- 2016年08月08日 『「金大中事件」が起きる(1973 昭和48年) 』
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*1973年8月8日の午後1時20分ごろ、韓国の民主活動家(のち大統領。ノーベル平和賞受賞)金大中(キム・デジュン)が東京のホテルグランドパレスで5人の男たちに襲われ、拉致された。その後金氏は関西地方の港から船に乗せられたとみられ、海に投げ捨てて殺されるところだったが辛くも助かり、5日後、ソウルの路上で解放される。日本の警察の捜査の結果、韓国大使館1等書記官の指紋が拉致現場で発見されたことから、犯行に韓国中央情報部(KCIA)が関与していた疑いが浮かび上がった。もしそうだとすれば、日本国に対する重大な主権侵犯である。日本政府は韓国政府に対し、真相解明と、金氏らの原状回復(東京に戻すこと)を求めた。しかし韓国は原状回復を拒否し、事件をうやむやにする態度をとる。これには日本政府と国民から怒りの声が上がったが、政府は韓国側の一定の譲歩と引き換えに政治的に決着させる方針を打ち出した。11月2日、韓国首相・金鍾泌(キム・ジョンピル)が来日し「陳謝」する。最終的には1975年7月22日に、宮沢喜一外相が韓国政府の次のような「口上書」を抗議なしに受け取ったことにより「政治決着」が完成した。――「1等書記官の事件関与は確証がなく不起訴。しかし品位を汚したので解職した」。「金大中事件」はこれにて一件落着‥‥。
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- 2016年08月07日 『岸信介・元首相が死去する(1987 昭和62年) 』
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*子どものころかわいがってもらった「おじいちゃん」は、だれでもなつかしく、ありがたい存在である。だがその人が「昭和の妖怪」などと呼ばれることもある人物だったら?――今日が命日の岸信介(きし・のぶすけ)元首相と、孫で現首相の安倍晋三氏との関係がそれである。が、安倍氏はまったく意に介さず、「おじいちゃん」をひたすら尊敬しているようだ。ところでここに、安倍氏の参考になりそうないい新聞記事がある。2016年8月5日の『朝日新聞』に載った「社説余滴」(箱田哲也記者)である。記事はまず、曽田嘉伊智というキリスト教伝道師のことを紹介する。曽田は戦前、日本統治下の現ソウルで孤児院を開き、千人もの恵まれない子どもを育てた篤志の人である。戦後は日本で暮らしたが1961年、招かれて訪韓。翌年その地で亡くなり葬られて、同国の文化勲章を贈られた。日本ではあまり知られていないこの人の功績を、かつては日本の保守政治家の多くがたたえたと、記者は書く。《中でも曽田と同郷の岸信介・元首相は熱心で、死去2年後にソウルであった曽田の追悼式に娘夫婦の安倍晋太郎夫妻を送った。言わずと知れた安倍晋三首相のご両親だ》。岸と親交のあった崔書勉(チェ・ソミョン)氏によると、《岸は何度も、韓国には悪いことをしたと謝った。それどころか反日で鳴らした李承晩〔イ・スンマン。元韓国大統領〕に特使を送り、〔‥‥〕伊藤博文の過ちをわびさせた》。昔の保守政治家はこのように懐が広かった、というのが記事の趣旨なのだが、安倍氏にはこういう「おじいちゃん」をもっと見習ってほしいものだ。
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- 2016年08月06日 『東京の水不足で「東京砂漠」の語ができる(1964 昭和39年) 』
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*今年は北関東のダムにたまった水の量が不足しているため、取水制限が行なわれている。それでも満水時の30%以下になったダムはないから、1964年の異常な渇水に比べれはるかにましである。1964年というのは、秋に開かれた夏季オリンピック東京大会に向けた開発と建設が頂点を迎えた年であった。かねてから水の需要に供給が追い付かないところへもってきて、この年は空梅雨。東京の水がめだった小河内ダム(奥多摩湖)などの貯水率は一時3%(30%ではない!)にまで落ち込んでしまった。そこで8月6日、都内17区で「第4次給水制限」が実施され、何と1日15時間断水となった。それでも定期的にちゃんと水が出れば何とかしのげるが、土地によっては1日中1滴も出ない場合もあり、都民は悲鳴を上げた。この騒ぎで「東京砂漠」という言葉ができ、流行語になったほどである。都や国も手をこまねいていたわけではなく、25日には埼玉県朝霞市で荒川から取水した水が供給されるようになったので、第3次制限に復帰して一息ついた。ちなみにこの「東京砂漠」という言葉、多くの人の胸に残ったらしく、渇水から12年もたった1976年、内山田洋とクール・ファイブのヒット曲のタイトルとなった。ただし、ここでは東京の人間関係の希薄さを表現する言葉に転用されている。
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- 2016年08月05日 『日本で初めてタクシーが営業を始める(1912 大正元年) 』
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*東京の街をタクシーという名の自動車が走り始めたのは、元号が明治から大正に切り替わる、まさにその境目の時期だった。まだ「明治」が続いていた7月10日、当時の東京市麹町区有楽町3丁目1番地(現・数寄屋橋交差点あたり)を本店とするタクシー自働車株式会社という会社が設立された。「自動車」ではなく「自働車」であることが時代を感じさせるが、それよりも、当時としては「タクシー」という語の方が人々の目を引いたはずである。何しろこれが日本初のタクシー会社だったのだから。7月19日付けの「官報」はこの会社の目的を「自働車を以て旅客の運送を為すこと」としており、当たり前すぎて微笑を禁じ得ない。それはともかく、この会社の持つタクシーは、アメリカ製のT型フォード6台だけだったというから、実にささやかなスタートだったのである。実際の営業が始まったのは、改元(7月30日)後の8月5日のこと。最初は「流し」はなく、本店と上野、新橋などに置かれた営業所にやってきたお客を乗せて走っていた。当初からメーター付きで、1マイル(1.6キロ)までが60銭、以後半マイルごとに10銭という運賃設定だった。この60銭というのは当時の日雇い労働者の1日の賃金とほぼ等しいらしいから、今と比べ格段に高かったことが分かるだろう。
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- 2016年08月04日 『東京・銀座に「ビール店」が開かれる(1899 明治32年) 』
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*今年3月28日には、1903年に開店した東京の「ビールガーデン」をご紹介したが、それより早く銀座に開かれた「ビール店」があった。当時の新聞広告が傑作なので「鑑賞」してみよう。まず原文を掲げる。読点(「、」)と、漢字の読みや送りがな(〔 〕内)を補った。《今般欧米の風に倣ひ〔=ならい〕、本月四日、改正条約実施の吉晨〔きっしん〕を卜〔ぼく〕し、京橋区南金六町五番地(新橋際)に於てビール店(BEERHALL)を開店し、常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵いたし置〔=おき〕、最も高尚優美に一杯売〔=うり〕仕候間〔つかまつりそうろうあいだ〕、大方の諸彦〔しょげん〕賑々敷〔=にぎにぎしく〕御光来、恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願ふ 売値 半リーテル 金拾銭 四半リーテル 金五銭 日本麦酒株式会社》。まず「当月四日」だが、1899年8月4日、つまり117年前の今日である。「改正条約実施の吉晨を卜し」とは、幕末から明治初年にかけて日本が欧米諸国と結んだ「不平等条約」を「改正」した新条約がこの年実施されたことを祝い――といった意味である。「南金六町五番地」は、今の銀座8丁目「天国ビル」のあたり。「一杯売仕候間」は「ジョッキで1杯ずつお飲みいただけますので」、「諸彦」は「紳士の皆さま」の意。「リーテル」は「リットル」で、「四半リーテル」は4分の1リットルのこと。このビール店が、現在の(株)サッポロライオンの源となった。
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- 2016年08月03日 『浅間山が大噴火を始める(1783 天明3年) 』
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*群馬・長野の県境にそびえる浅間山は1783年に大噴火を起こす。「七月六日夕刻ヨリ七日ニカケテ、浅間山大噴火ノタメ、江戸市中降灰、市民ヲ驚カス。関東一円ノ被害甚大ニシテ、信州・上州ノ死者二万人余ト伝フ」(『増訂武江年表』)。旧暦「七月六日」は新暦では8月3日である。この日は江戸でも火山灰が降ったことが分かる。それだけではない。泥流で流された人々の遺体が、吾妻川(あがつまがわ)-利根川-江戸川と流れ、今の東京湾近くの岸辺にも漂着したのである。江戸川にあった中州・毘沙門州には、流れ着いた遺体が積み重なったため、州が大きくふくらみ、船の航行に差し支えるほどになったという。土地の人々は、それらの遺体を近くの善養寺の無縁墓地に運んで埋葬した。1795年(寛政7年)に13回忌を迎えると、彼らは「天明三年浅間山横死者供養碑」をたて、死者の菩提を弔う。それだけでも立派なのに、何と200回忌にあたる1982年(昭和57年)には「浅間山焼け供養碑和讃」という歌を作り、それを石に刻んで「供養碑」のわきにたてた。何という息長く、手厚い供養であることか。群馬県出身の筆者はこの夏、激しい雷雨の中、東京・小岩の善養寺を訪ねて供養碑にぬかずくとともに、地元の人々の真心に心から感謝をささげた。
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- 2016年08月02日 『東京・銀座などで「歩行者天国」が始まる(1970 昭和45年)』
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*新宿や銀座など、東京の目抜き通りでは、日曜日などの一定時間帯は車の通行を禁止し、道路全体を歩行者に開放している。この「歩行者天国」略して「ホコ天」が、今のような形で初めて実施されたのは、1970年の今日のことである。当時の東京都知事・美濃部亮吉は、民心をつかむのがうまい政治家で、歩行者天国も美濃部の発案で開始されたといわれる。道路が車に占領されることが常態化していたこのころ、一時的にでも車をシャットアウトし、道路を人間に取り戻そうという試みは広範な都民の支持を得、実施当日の通りには多くの人々が繰り出した。その日の銀座・松屋前の人混みのようすは、こちらの写真でご覧いただきたい。歩行者天国が生み出した文化現象の一つに、いわゆるストリート・パフォーマンスがある。最も有名なのは、JR原宿駅周辺に出現した竹の子族。奇異な衣装を着た少女らが路上で踊り狂うようすは、今となっては懐かしい(原宿の歩行者天国は1998年で廃止、「竹の子族」も絶滅した)。悲惨な事件としては、2008年6月8日に秋葉原の歩行者天国で起きた通り魔事件がある。17人が死傷したこの事件のため、秋葉原では数年間、歩行者天国が行なわれなかったが、現在では復活している。
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- 2016年08月01日 『室生犀星が生まれる(1889 明治22年) 』
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*金沢市の繁華街から大通りを南西に向かって歩くと、犀川の流れにたどり着く。「犀川大橋」を渡り切ったら右折し、石畳の小道に入ってみよう。すぐ右手の川岸に寺があり、「雨寶院」という表札が掲げられている(以下「雨宝院」の表記を用いる)。ここが、詩人室生犀星が育った寺である。「生まれた」ではなく「育った」と書いたのには訳がある。犀星は、金沢藩士とその女中との間に私生児として生まれた7日後に、近くの雨宝院住職の内縁の妻に引き取られ、「照道」という名をつけられた。のち住職の養子となり、室生家の一員となったが、家にはほかにも人からもらわれてきた子どもたちがいて、大事にされず、冷遇されて育った。高等小学校を中退した後、貧苦の中で文学に目覚め、詩人への道を歩み始める。やがて北原白秋の門下に入り、同門の萩原朔太郎と親交を結んだエピソードは有名である。1914年(大正3年)と15年には2年続けて前橋市の萩原家を訪ねている。初対面の時、朔太郎は「慶事だ」といって、祝日でもないのに、家の門に日の丸の旗を掲げて犀星を歓迎した。その日の犀星は、原稿用紙と手ぬぐいと石鹸だけを風呂敷きに包み、「犬殺しのようなステッキ」をついてやってきたというから面白い。
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- 2016年07月31日 『クラーク博士が生まれる(1826 文政9年) 』
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*明治政府は新しい国づくりのために多くの「お雇い外国人」を招聘したが、札幌農学校の教頭(事実上の校長)に就任したウイリアム・クラーク博士もその一人である。1826年の今日、アメリカ・マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれている。新島襄も学んだアマースト大学で鉱物学や化学などを修め、卒業演説のタイトルに「錬金術師」を選んだ。ついでドイツのゲッティンゲン大学に留学、隕石の研究をして博士号を取得している。帰国後、母校の教授に迎えられるが、1867年マサチューセッツ農科大学の学長に転じる。この間、少佐として南北戦争に従軍した。札幌農学校赴任は1876年(明治9年)のことで、大学からもらった1年間の休暇を利用しての来日だった。だから札幌で働いたのは8カ月間でしかないのである。彼が教えたのは同校1期生の佐藤昌介や大島正健らのみで、2期生の内村鑑三や新渡戸稲造は習っていない。なのに内村らが彼の「教え子」とされるのは、入学後、クラークが作成した「イエスを信ずる者の契約」という文書に署名するよう1期生らに迫られ、それを受け入れたからである。クラークは帰国後、学長を辞して、鉱山業などのベンチャーに手を出して失敗、59歳で失意の一生を終わる。だから日本での名声の方が故国のそれよりずっと高いのである。
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- 2016年07月30日 『幸田露伴が死去する(1947 昭和22年) 』
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*《私が台処の番だった。玉子がみとりの番で、雨戸を明けて掃除に部屋へはいって行ったと思うと、おじいちゃまが血だらけだと、あたふたと声をひそめて知らせた。これが父を死まで引っ張ってしまったものの、一番はじめの触れであった。顔・髯(ひげ)・手・枕(まくら)・シーツと紅(あか)くしていたが、父は何も気づかない様子であり、私は瞬間はっとしたけれど、まさか一大事に尾を曳(ひ)くとはおもわなかった。のちに悲しく気づいた。死は父を奪うに、なんとふてぶてしくやって来たことだかと》――作家・幸田文が父・露伴の臨終のあとさきを描いた『父―その死―』の一節である。露伴はこの日(1947年7月11日)以降、連日のように口から血を吐きながら死んでいった。《十二日、午前一時出血。/十三日、午前一時出血》《十五日、午前一時出血。十六日、午前一時出血》と、こんな具合である。だから読み進めている間は、こちらまで血だらけになってしまうような気がして困るのだが、読後は血なまぐささが全部抜けて、すっきりとしたものになる。それは、今と違って過剰な延命措置をほどこされず、自然に死んでいった露伴と、それを懸命に支えた娘と孫(随筆家の青木玉氏)の姿が美しいからだ、と筆者には思われる。露伴は7月30日、満80歳で死去した。
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- 2016年07月29日 『パリの凱旋門が落成する(1836 天保7年) 』
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*凱旋門は、エッフェル塔と並ぶパリの観光名所である。シャルル・ドゴール広場の中央にでんと構えるあの凱旋門は、正式には「エトワール凱旋門」という。ナポレオン1世がフランス軍の戦勝を記念し、古代ローマの凱旋門を模して建設させたものである。高さ50m、幅45mにおよぶ巨大なものであるなどの事情から工事に30年もかかり、ようやく落成したのはナポレオン死後の1836年7月29日のことであった。有名なシャンゼリゼ大通りをそぞろ歩き、時々カフェで休んだりしながら、だんだんと凱旋門に近づいていくのは、パリ遊覧の醍醐味の一つだ。大通りが尽きて凱旋門を見上げる位置まで来ると、すぐ前は円形の道路で車が疾走しており、横断歩道はない。だから地下道をを通って門まで行くことになる。昔は直接歩いて行けたのだろうが、この地下道があることによって、日本の胎内くぐりみたいに「暗く狭いところから突如明るく広いところに出る」というドラマチックな体験ができ、いい演出になっている。地上に出て門に近寄ると、壁面にほどこされた豪華な装飾が目に突き刺さってくる。特にアーチの左右4カ所に配された大規模な浮き彫りはみごとで、思わず見入ってしまう。中でも、1792年の義勇兵の出陣を描いた「ラ・マルセイエーズ」というレリーフ(F・リュード作)は傑作といわれる。
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- 2016年07月28日 『江戸川乱歩が死去する(1965 昭和40年) 』
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*日本語学者・今野真二氏の『常用漢字の歴史 教育、国家、日本語』(中公新書)を読んでいると、やや唐突に推理小説家江戸川乱歩が出てきて、1959年(昭和34年)にローマ字教育会(株式会社くろしお出版の前身)から出した『ローマ字独習 夢の殺人』の「まえがき」が次のように引用されている。《わたしは日本語ローマ字書き賛成者です。深く研究しているわけではありませんが、コトバが一つにならなければ、世界は一つのならないという考え方からです。この宇宙時代に、地球は当然一つになるべきであり、また、進んでいくものと信じています。しかし、各国が民族主義と自国語を固執していては、ほんとうに世界は一つにならないと思います。/世界語は人為的なエスペラントなどでなく、もっと自然な経路をたどって、混じり合い統一していくと思いますが、いずれにしても、それは地球上の大多数の人類が使用しているローマ字書きになるのが当然であります。お隣の中国でローマ字運動が進んでいるのも、その意味でありましょう。ローマ字にしただけでは、やっぱり外国人に読めないではないか、いっそ英語なら英語にしてしまったらどうかという説もありますが、世界語が英語そのものになるとはかぎりませんし、また、今すぐ英語にかえるなんて、実際上できないことですから、まず世界語への第一段階として、日本語のローマ字化が必要だと思います。それだけでも、外国人は日本語の話し方さえ覚えれば、少しの苦労もなく読み書きができるわけですから、非常なちがいがあります》。乱歩って、こんなことを考えてたんだなあ‥‥。今日はその乱歩の命日である。
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- 2016年07月27日 『「ロッキード事件」で元首相・田中角栄が逮捕される(1976 昭和51年) 』
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*それは1通の郵便物の誤配から始まった。1976年初頭、アメリカ上院外交委員会の多国籍企業活動調査小委員会に、航空機大手ロッキード社の極秘資料が誤って配達された。そこから発覚、摘発されたのが、同社の旅客機トライスターの日本売り込みをめぐる汚職事件、通称ロッキード事件である。公聴会に呼ばれた同社のコーチャン副会長の口から、全日空への売り込みのため、30億円を超える不正工作資金が投入されたことが明らかにされる。資金は右翼運動家・児玉誉士夫や同社日本代理会社である丸紅にわたり、政府高官への賄賂としても使われた。三木武夫首相は真相解明を国民に約束、アメリカに特使を派遣して、刑事免責を保証したうえで嘱託尋問を行ない、証言を集め公開した。日本での捜査は丸紅、全日空、児玉はもちろん、田中角栄前首相にも及んだ。田中が首相の職務権限に基づいてトライスター導入を実現し、代償として5億円を収賄したという容疑に、国民の関心が集中することになる。政界の関係者としては、橋本登美三郎・元運輸相、佐藤孝行・元運輸政務次官の名もあがった。国会での大々的な証人尋問などを経て、東京地検が田中を逮捕したのは、同年7月27日のことである(のち起訴され、1、2審で懲役4年、追徴金5億円の実刑判決。上告審中の1993年に死去し、公訴棄却)。
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- 2016年07月26日 『「ポツダム宣言」が出される(1945 昭和20年) 』
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*「ポツダム宣言」は第2次大戦最終段階で、連合国が日本に無条件降伏を求めた文書。1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の名で発表された。日本政府がその内容を知るのは当日の深夜のことであった。《今夜は何もおこるまいと関係筋が見当をつけたその夜中に、海外からの電波は巨大な楔(くさび)を日本の歴史にうちこんできたのである》(半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版』文春文庫)。翌27日午前11時、東郷外務大臣が天皇に翻訳文を提出する。天皇は《ともかく、これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまいのではないか。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない》(同書)との意思を表明した。だが東郷は、宣言をただちに受諾するのではなく、当面「静観」する腹積もりであった。政府がかねて和平の仲介を依頼していたソ連は宣言に加わっていないから、その工作はなおも進行しており、もうしばらく行方を見守る必要があると考えていたからである。この考えは甘かった。8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告、和平の道は断たれた。同時期にアメリカが投下した2発の原子爆弾も、日本の降伏を決定的にした。
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- 2016年07月25日 『「味の素」の特許が認められる(1908 明治41年)』
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*「味の素」は、東京帝国大学の化学者池田菊苗(いけだ・きくなえ)が昆布の成分から抽出し、精製してつくったうま味調味料である。1908年の今日、製造法の特許(第14805号)を取得、翌09年5月20日に、鈴木製薬所(現・味の素株式会社)から発売された。あくまでも一企業の商標名なのだが『広辞苑』にもちゃんと載っており、普通名詞化している。ところで、作家・開高健は『書斎のポ・ト・フ』(ちくま文庫)に収められた鼎談で、要旨次のような発言をしている。――ペルーでは「味の素」を「アジノトモ」という名前で売っている。現地の言葉では「あちら(アジ=allí)にオートバイ(モト=moto)を停めるな(ノ=no)」という意味になるからだ――。本当だと信じている人が多い(筆者もその一人だった)が、事実とは違うようだ。味の素(株)の現地法人「ペルー味の素社(Ajinomoto del Perú S.A.)」のウェブサイトを見ると、少なくとも現在では「味の素」がちゃんと「アジノモト(AJI-NO-MOTO)」の名で売られていることが分かる。開高の話は筋が通っていて面白いので、あちこちで引用されているが、話のうまい彼一流の冗談にみんなが引っかかっていたというのが真相のようである。「いや違う! 開高の言うとおりだ」という方は、ぜひお話をうかがいたいのでご連絡ください。
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- 2016年07月24日 『芥川龍之介が自殺する(1927 昭和2年) 』
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*1927年の今日、「唯ぼんやりした不安」を抱いて45歳で自ら命を絶った芥川龍之介の文学を「敗北の文学」と評したのは、のちの日本共産党委員長・宮本顕治だった。しかしこういう評価は第三者だからこそできる(する気になる)のであって、肉親にしてみれば「それどころじゃない」というのが本音だろう。龍之介が自殺したとき、もっとも身近にいたのは、妻・文(ふみ)である。10代で龍之介と結ばれた文の結婚生活は多難だった。特に晩年の龍之介は、健康状態の悪化と神経衰弱で常に死を願う人になっていたから、文の心は休まることがなかったはずである。死の前年の1926年春、龍之介が文と3男也寸志(のちの作曲家。当時生まれたばかり)と共に、神奈川県・鵠沼(くげぬま)海岸の旅館に滞在して療養したときのことである。《龍之介は文子に付き添われて、海岸を時々散策した。鵠沼の海岸には松林があって、いろいろな枝ぶりの松があった。/「あの松は枝ぶりがいいね」と龍之介が言った。すると文子はわざと先手を打つように、/「ちょうどいい枝ぶりではありませんか」/と言った。龍之介はぐっと押し黙った》(巖谷大四『懐かしき文士たち 昭和編』文春文庫)。今の20代の女性にこんな対応ができるだろうか。文という人の「つよさ」を思う。
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- 2016年07月23日 『「女工哀史」の出版記念会が開かれる(1925年 大正14年) 』
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*『女工哀史(じょこうあいし)』という本があって、明治時代の紡績工場で働く女性たちの過酷な実態が書いてあるんだそうだ、ということは多くの人が知っているが、「読んだことがある」という人は、はなはだ少ない。だからだれが書いたのかを知る人も少ない。著者は細井和喜蔵(ほそい・わきぞう)である。この名前、特に「和喜蔵」という字面が「おじいさん」を連想させるため、ひげを生やした高齢の男性が一生をかけてまとめた力作、といったイメージがわいてくる。調べてみるとこの想像は大外れで、細井はこの本を書いたとき、まだ20代の若者だった。そして、本が出た直後に亡くなっている‥‥。1897年、京都府の農村に生まれた細井は貧苦の中で育ち、1920年上京して東京モスリン紡績亀戸工場で働き始める。労働問題に関心があり、筆が立ったので、社会主義の雑誌『種蒔く人』に寄稿したり、自分で雑誌を出したりするようになった。『女工哀史』は1924年(大正13年)雑誌『改造』に発表したルポルタージュだが、翌25年、単行本となって出版された。この年の今日、細井の師にあたる作家・藤森成吉が中心になり、細井のために出版記念会が開かれている。ところがそれから一月もたたない8月18日、細井は急性腹膜炎で死去してしまう。たった28年の人生であった。
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- 2016年07月22日 『メンデルが生まれる(1822 文政5年) 』
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*遺伝を決定づける「メンデルの法則」は、理科の授業で必ず習う。でも、たいていの先生がいきなり「AAとaaをかけ合わせると‥‥」という、あの「系図」の説明を始めるので、その種の操作が嫌いな子は「遺伝」そのものに興味を失ってしまう。遺伝は私たちの「生」を貫く重要なできごとなのに‥‥。先生がちょっと視野を広げて、メンデルがカトリックのお坊さんで、実験に使ったエンドウマメは修道院の庭に植えられていたというエピソードを語ってやれば、生徒たちの興味が刺激され、学びを促す効果があるのではないか。こんな風に――「メンデルはね、専門の科学者じゃなかったんだ。1822年にオーストリアの小さな町で生まれた人で、『本職』はキリスト教のお坊さんなんだよ。21歳でチェコのブルノという都市の修道院に入って、神様に仕える生活をしていたんだ。だけど科学が好きで、余暇を使って一生懸命勉強した。29歳のときにはウィーン大学に留学して、2年間、生物学や数学を学んだほどの熱心さだったんだよ。このとき学んだことが、エンドウマメを使った遺伝の実験に役立ったんだと思う。そのエンドウマメはね、修道院の庭に植えられていたんだけど、なんでも1万株以上あったっていう話だから、ずいぶん広い庭だったんだろうねえ。今でも残っているのかな。(以下略)」