旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年02月24日 『エストニアの独立記念日(1918 大正7年)』
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バルト三国のひとつ,エストニアには「独立記念日」がふたつある。ひとつは,1991年,エストニアがソビエト連邦を離脱する宣言をした8月20日,もうひとつは,ロシア革命の直後の1918年,2世紀にわたるロシアの支配からの独立をエストニアが宣言した2月24日。どちらも祝日だが,公式に独立記念日と呼ばれるのは2月24日のほうで,多くの日本人がエストニアが独立した日だと思っている8月20日は「独立回復記念日」と呼ばれる。
第一次世界大戦の最中の1918年2月24日に独立宣言をしたエストニアは,侵攻して来たドイツ軍にたちまち占領される。同年11月に戦争が終結しドイツ軍が撤退すると,再びソビエト軍が侵入,内戦が翌年秋まで続くが,エストニアは善戦し,1920年2月2日,ソビエトロシアと「タルト和平条約」を結んで,独立を承認させた。
しかし,独立国エストニアの繁栄は20年ほどしか続かない。1939年9月に第二次世界大戦が始まると,ソ連邦は,ドイツとの密約に基づいてバルト三国への軍隊駐留を認めさせ,1940年6月には三国をほぼ同時に連邦構成共和国として併合する。この併合を,ソ連邦によるバルト三国の武力占領とみなして承認しなかったアメリカ合衆国は,ワシントンに置かれた三国それぞれの亡命政権との外交関係を1991年まで維持した。一方,バルト三国のソ連邦併合を外交的に承認した日本は,三国との間の条約などの外交関係を一切破棄したから,エストニア共和国は日本の地図から消えた。
半世紀後の1991年8月にモスクワで起こったクーデター未遂事件は,バルト三国の境遇を一夜にして変えてしまった。1991年8月20日のソ連邦からの離脱宣言により,1918年2月24日に独立したエストニア共和国の本来の姿が回復されたとするのが,現在のエストニア共和国政権の立場である。独立国エストニアは,1918年から現在まで,ほぼ100年にわたり継続しており,その歴史のうちの約半分の1940年から1991年まで,外国の占領下にあったと考えるわけだ。1940年にエストニアとの外交関係を断絶してしまった日本は1991年以後,外交関係を一から作りなおすことになった。日本人にとってのエストニアは,1991年に独立した国ということになる。
1920年のタルト和平条約で取り決められたロシアとエストニアの国境は,ソ連邦に属していた時代に少し変更され,独立回復後もそれを維持する条約が結ばれた。1994年,旧ソ連邦軍は,現在のエストニア領内から完全撤兵した。エストニアは現在NATO同盟国である。(松村一登)
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- 2016年02月23日 『テレビ映画「月光仮面」の放映が始まる(1958 昭和33年)』
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*「どこの誰かは知らないけれど/誰もがみんな知っている/月光仮面のおじさんは/正義の味方よ 善い人よ/疾風(はやて)のように現れて/疾風のように去って行く/月光仮面は誰でしょう/月光仮面は誰でしょう」――1958年の今日から、今のTBSで放映が始まったテレビ番組『月光仮面』のテーマソング『月光仮面は誰でしょう』の歌詞(一番)である。作詞は、番組そのものの原作者でもある川内康範が担当した。番組をリアルタイムで見た人は限られるのでちょっと説明しておくと‥‥月光仮面とは、わが国最初期の子ども向け連続テレビ映画の主人公で、悪と戦うヒーローである。その活躍ぶりと奇抜なコスチュームで空前の人気となり、子どもたちをテレビにくぎ付けにした。その「雄姿」はこちらのビデオでご覧いただきたい。ところでこの主題歌の歌詞を読むと、いくつかの点で日本社会と日本語の変遷が分かって面白い。2点のみ指摘する。第1、「月光仮面のおじさんは」の「おじさん」。月光仮面の後継者といえる「〇〇マン」「〇〇ライダー」などは、「おじさん」というより「お兄さん」に近い年代に見え若々しいが、月光仮面はたしかに「おじさん」ぽかった。『鞍馬天狗』で杉作少年が「天狗のおじさん!」と呼びかけた伝統を引き継いでか、この時代のヒーローは、分別盛りの成人男性というイメージが強かった。ところが時代が進むにつれ、ヒーローが若年化する一方、「おじさん」の語感からは頼もしさと戦闘性が失われ、代わりに哀愁が漂うようになってきたのは興味深い。第2、「正義の味方よ 善い人よ」の「善い人」。今では、一方的に「この人善い人よ」などと言ったら、「はぁ?」という反応しか返ってこないだろう。人を見る目が悪い意味でシビアになってしまった21世紀の日本。それに比べて1950年代は、「この人善い人です」といえば、みんなが「ああ、そうですか」と素直に受け止めてくれる「善い時代」だったことがしのばれ、考えさせられる。
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- 2016年02月21日 『夏目漱石が博士号を辞退する(1911 明治44年)』
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*と聞いて「何か変だな」と感じる人もいるだろう。望まない人に博士号が贈られるということ自体、今日ではありえないからだ。しかしこの当時は現在とは制度が異なる。本人から求めがなくても、推薦や認定により、文部大臣が学位を贈ることが可能だったのである。そんなとき、たいていの人は喜んで受けたが、漱石は違った。「私はこれまで夏目漱石という一個の人間として生きてきました。これからもそうしたいと思います。だから博士号はいただきたくありません。博士号という制度自体も、あまりいいものだとは思いません」という趣旨の手紙を書き、きっぱりと断っている。現在は叙勲に際しても事前に本人の受ける意思を確かめてから贈っているが、「官」の権威が絶大だったこの時代には博士号辞退など想定外で、文部省はすんなり受け取ってもらえると信じていたに違いない。それを断った漱石の精神は、「明治という国家」の外ではばたいていたというべきだろう。なお漱石自筆の断り状(下書き)は東北大学のサイトで、問題の博士号がお役所的には取り消しになっていないことを示す「学位録」の画像は東京大学のサイトで、それぞれ見ることができる。
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- 2016年02月19日 『昭和天皇の「地方巡行」が始まる(1946 昭和21年)』
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*1946年1月,いわゆる人間宣言を行なった昭和天皇は、翌2月から、国内各地をめぐる視察旅行を開始する。これを「地方巡幸(じゅんこう)」と呼んだ。2月19日、まず神奈川県に赴いたのに続き、同28日には東京都、3月25日には群馬県、同28日には埼玉県各地を訪れた。天皇は各地で歓迎を受け、何か説明を受けると必ず発した「あっ、そう」という返答が一種の流行語になった。天皇は1954年までに、沖縄を除く全都道府県を訪れている。巡幸先で、おばあさんが天皇と並んで歩いていることに気付かず、天皇の居場所を必死で探しているようすを写した愉快な写真が残っている。1949年5月に福岡県で撮られたものだが、庶民と天皇が肩を並べて歩くことなど、敗戦前には考えられないことであった。
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- 2016年02月16日 『日本初の天気図が作られる(1883 明治16年)』
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*この日、ドイツの気象学者エルヴィン・クニッピングの指導により、日本で初めて7色刷の天気図が作られた。わずか全国11ヶ所の測候所からのデータのみで作られた。現在では全国約130ヶ所の気象官署と約1300ヶ所のアメダスのデータが利用されていることを考えると、かなりアバウトな天気図といえる。作図と言うより勘で描いていたとも言える。現在、天気図が掲載されるメディアは、新聞、テレビ、Webがある。小さい画面ながら携帯サイトでも簡単に天気図が確認できる。しかしこの年、天気図が一般に公開された場所は、明治5年に開通したばかりの鉄道駅舎だった。派出所も掲示場所だったので、人通りの多い所に貼り出された事が分かる。ちなみに、東京気象台(気象庁の前身)で正式に天気図を作成し、印刷配布を開始したのは同年3月1日からである。(村上明子執筆)
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- 2016年02月13日 『全国民が苗字を名乗ることを義務づけられる(1875 明治8年)』
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*この日、明治政府が平民苗字必称義務令という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務づけた。村ごと同じ苗字ということもよくあったため、戦後の高度成長期に都市部へ移動するまで苗字で呼ばれたことがなかったという人も多く存在した。また、寺の住職が名を決める地域が多かったため、時に仏典からの引用もある。住居地で苗字を決められた例に、「村上」がある。新潟の一地方と瀬戸内海にある因島の田熊町である。因島の村上水軍には前期と後期があり、前期村上水軍と呼ばれた軍は、勅命により新潟の村上氏が海賊討伐に参加した後そのまま残ったと言われている。後期村上水軍は、頭領が病死したために周囲から狙われ、村にとっては島の反対に位置する現在の田熊町付近の海まで逃げ込んだところから始まっている。その後、海を埋め立ててできた地域が現在の田熊町である。寺は、ほぼ全ての田熊一帯の人々の苗字を「村上」とした。(村上明子執筆)
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- 2016年02月12日 『日本初の「バレンタイン・チョコ」の新聞広告が出る(1936 昭和11年)』
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*バレンタインデーを2日後に控え、「そろそろチョコの用意をしなけりゃ」と思っている男子もいらっしゃるだろう。そこで、今日チョコを買うのが大正解かも、という話をさせていただく。1936年の今日は、神戸のチョコレート店「モロゾフ」が、日本初の「バレンタイン・チョコ」の広告を、英字紙「ザ・ジャパン・アドバタイザー」に出した日なのである。その広告には、「あなたのバレンタインへの贈りものにモロゾフのチョコレートを」とあり、箱入りのファンシーチョコの図が添えられている。ここでいう「バレンタイン」とは「愛する人」の意味で、肉親を含み、男女を問わない。その意味でこの広告は、まだ日本化する前の、欧米風・元祖バレンタインデーの習慣に基づいているといえる。これは記念すべき広告ではあったものの、英字紙に載った英文の広告だから、日本の大衆にはほとんどアピールしなかったと思われる。それに1936年2月といえば、あの2・26事件が起きたまさにその月。2週間後に起きたこの事件で、チョコレートの甘みは弾薬の臭いにかき消され、広告の効果は長続きしなかったに違いない。だから、「バレンタイン・チョコ」の復活は、第2次大戦の敗戦後を待たなければならなかった。1958年(昭和33年)、現在も元気に営業しているメリーチョコレートが、東京・新宿の伊勢丹百貨店で開いた「バレンタイン・フェア」が再デビューのイベントであったとされる。同「フェア」も2月12日から始まったそうだから、冒頭で述べたように、今日チョコを買うのが最も由緒正しい買い方といえるかもしれない。
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- 2016年02月09日 『夏目漱石が生まれる(1867 慶応3年)』
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*のちに漱石を名乗ることになる夏目金之助は、慶応3年の1月5日(旧暦)、江戸・牛込馬場下(現・新宿区喜久井町)で、名主の子として生まれた。名主の子なら、何不自由なく育てられたのだろうと思うと大間違いで、漱石の子ども時代ははっきりいって悲惨だった。『硝子戸の中』に書いてあるように、彼は両親の晩年に生まれた末っ子で、母親は、こんな年になって妊娠して「面目ない」と恥じ、子どもをかわいがらなかった。金之助は生れ落ちるとすぐに、四谷の古道具屋に里子に出され、商品と一緒に夜店にさらされた。それではあまりにかわいそうだというので実家に戻されるが、今度は父の知人の家に養子に出される。養父母の離婚によって9歳で実家に戻ったものの、21歳まで復籍できなかった。――評論家の三浦雅士氏は、「これでは子が拗(す)ねないほうがおかしい。僻(ひが)まないほうがおかしい」と指摘し、そういう拗ね屋で僻み屋で、何かというと「じゃあ、消えてやるよ」という態度をとる漱石のパーソナリティーとその作品とを結びつけて分析した『漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書)を著している。漱石の生まれた慶応3年1月5日は新暦になおすと、1867年2月9日となる。来年で生誕150年である。
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- 2016年02月07日 『仇討禁止令が出る(1873 明治6年)』
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*空から雪の落ちてくる夕暮れの新橋ステーション。人力車夫が一人、客を待つ。名を直吉という。実はこの直吉、13年前の3月3日、桜田門外で大老・井伊直弼を暗殺した旧水戸藩士の一人(本名・佐橋十兵衛)である。捕縛もされず、自刃も出頭もできずに明治の世を生きながらえてきた。いま彼は、新政府の出した「仇討禁止令」を伝える新聞を食い入るように見つめているところだ。とそこへ、散切り頭に二本差しの男が客として現れる。「雪見でござんすね」と尋ねる直吉に、男は「雪景色といえば、やはり桜田御門であろうな」。直吉の全身に戦慄が走る。ついに来たか! 男はあのとき、直弼の警護役を務めていた旧彦根藩士・志村金吾である。金吾は主君の仇を討つため、刺客の残党を一人一人探し求める歳月を送り、この日ついにたどり着いたのが直吉なのであった。直吉が男を乗せた俥は、雪で登れない桜田の坂の代わりに、高輪の柘榴(ざくろ)坂を登ってゆく。《しばらくの間、直吉は今生の力をこめて俥を引いた。/この侍はいったい何のために、十三年も前の主君の仇を討とうというのだろう。帰るべき藩も城もすでになく、美談が讃えられるはずもあるまい。ましてや太政官布告によって仇討が禁じられた今、所業は一つの殺人にすぎない》。今登るこの坂は、13年前、同志とはぐれた直吉が、死のうとして死ねなかった場所でもある。ややあって、俥は停まる。《棍棒を下ろすと、直吉は笠を脱いで雪の上に座った。/そのとたんふいに、忘れていた声が唇を震わせた。/「そこもとの御執着、頭が下がり申す。存分に本懐を遂げられよ」》――さあ、これからどうなる? 続きは浅田次郎の短編「柘榴坂の仇討」(中公文庫『五郎治殿御始末』所収)でお楽しみいただきたい。この小説で重要な役割を演じている「仇討禁止令」が出されたのは、1873年のきょうのこと。その名も床しい柘榴坂はJR品川駅前に実在するが、あたりに大名屋敷が並んでいたという往時の風景はまったく失われている。
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- 2016年02月05日 『美濃部亮吉が生まれる(1904 明治37年)』
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*1904年の今日生まれた〈みのべ・りょうきち〉は、「天皇機関説」で名高い憲法学者・美濃部達吉の長男。経済学者で東京教育大学教授を務めた。1967年、革新統一候補として都知事選に立候補し、松下政寿(元立教大学総長)を破って当選、3期12年にわたり革新都政を率いた。任期中の71年、ごみ処理をめぐり、最終処分場である江東区と他の22区との対立が激化した際、都議会で行なった演説は「ゴミ戦争宣言」と呼ばれて有名である。それを起草した広報室長は、のちの作家童門冬二であった。「耳で聞いただけでわかる原稿」をと求められ、何度も書き直しさせられたと回想している(『朝日新聞』2011年11月19日夕刊「昭和史再訪」)。政治家としての美濃部の評価は今日さまざまであるが、大衆の心のひだに入りこむには役人用語と手を切った日常普通の言葉遣いが必要であることを心得ていた点で、その言語的センスは抜群であった。
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- 2016年02月01日 『日本初のテレビ本放送が開始される(1953 昭和28年)』
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*今日は「テレビ放送記念日」である。1953年2月1日、NHKが東京でテレビの本放送を開始したことを記念している。この日は午後2時、「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」という第一声が流れたあと、千代田区内幸町にあった放送会館での「東京テレビジョン開局式典」のようすが放映された。続いて尾上梅幸・松緑らによる舞台劇「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」、ニュースなどが流れたあと、3時半で放送はいったん打ち切りに。6時半に再開され、「子供の時間」に続いてニュースや天気予報、そして娯楽番組「今週の明星」と現代舞踏「日本の太鼓」が日比谷公会堂から中継されたりして、午後9時で終了となった。だからこの日の放送時間は合わせて4時間だったことになる。実際に放映された映像が残ってはいまいかと探してみたが、当時は放送内容をVTRで記録しておくという習慣もゆとりもなかったとのことで、かなわなかった。ただ、当日の模様をフィルムで撮影したと思われる映像は残っており、公開されている。その一つ「NHKテレビジョン放送開始」の映像には、テレビカメラによる舞踊の撮影風景が写っている。また「NHK東京テレビジョン開局記念行事の記録」は、街頭での宣伝活動のようすが収録されており、時代を感じさせられる。ちなみに放送開始時のテレビ受信契約は866件、受信料は200円だった。
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- 2016年01月30日 『日英同盟が締結される(1902 明治35年)』
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*あなたの住む町に「日英」の2字が入った名前を持つ老舗の商店や会社はないだろうか。たとえば「日英堂」とか「日英館」とか……。「あっ、あるある」と思いついた方は、そこへ行ったとき、「何年創業ですか?」と聞いてみてほしい。かなり高い確率で「1902年(明治35年)です」という答えが返ってくるはずである。たとえば、ネット検索で見つけた前橋市の日英写真館さんのホームページを見ると「1902年から続く……」とある。なぜ1902年と「日英」が結びつくのだろうか。実はこの年の今日、日本とイギリスとの軍事同盟である「日英同盟」が結ばれている。日清戦争に勝利して意気揚がる日本が、ついに天下の大英帝国の舎弟にしてもらえたというので大喜びした年である。同年2月から4月にかけて、全国各地で同盟締結の祝賀会が開かれ、お祭り騒ぎが続くことになる。「日英」はこの年の流行語となり、新開業の店や会社の名称に多く織り込まれた。以来114年。2世紀にわたって営業を続けてこられた日英写真館さんの屋号には、そんな歴史が刻まれているのである。「日英」を名乗る他のお店や会社も、みな優良企業であるに違いない。なお、日本は日英同盟のよしみで、第1次世界大戦中の1917年(大正6年)2月、軍艦を地中海に派遣して欧州戦線に加わったことがあるのだが、ほとんど知られていない。別項で触れたい。
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- 2016年01月26日 『「帝国自転車製作所」が自転車の製造を開始する(1888 明治21年)』
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*自転車は太古の昔からあったようにも思えるが、それは間違いで、自転車の歴史は19世紀ヨーロッパよりも前にはさかのぼれない。荷車や戦車が古代から存在したのに比べ、自転車は近代の産物なのである。日本では、明治時代まで国内で製造することができず、外人宣教師などが持ち込んだ自転車を見てびっくりしていたらしい。日本で最初の自転車製造がいつのことかについては諸説あるが、梶野甚之助(または仁之助)という人が横浜蓬莱町(今のJR横浜駅東口あたり)に自転車工場を設け、木製(!)自転車をつくった1879年(明治12年)、東京・浅草北三筋町(現・台東区三筋周辺)に帝国自転車製造所が設立された1888年(明治21年)1月26日、宮田製銃所((株)ミヤタサイクルの前身)がいわゆる安全型自転車を試作した1890年などが画期とされる。自転車の歴史を詳しく知りたい方は、科学技術館の中にある自転車文化センターに行ってみるとよい。同センターのウェブサイトには、上で触れなかった多くの史実が写真入りで紹介されている。それを見ると分かるが、自転車といっても三輪、四輪のものも含まれ、どうも二輪車より三輪以上のものの方が早く現れたようである。私たちが子ども時代、まず三輪車を与えられ、成長すると二輪車に乗り換えるのは、ひょっとすると自転車発達史を「追体験」しているのかもしれない。
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- 2016年01月23日 『スタンダールが生まれる(1783 天明3年)』
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*この日フランス南西部グルノーブルで誕生したスタンダールに『恋愛論』(1822)という作品がある。その一節に《恋するとは、自分が愛し、自分を愛してくれる相手を見たり、触れたり、あらゆる感覚をもってできうる限り近くに寄って感じることに快感を感じることである》とある。これと次の文章を比べてみよう。《特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと》。これは、『新明解国語辞典』(三省堂)の「恋愛」の語釈である。途中まで、非常によく似ている。この語釈を書き、国語辞書で文明批評を実践したといわれる「新解さん」(某大学教授で国語学者。故人)は、スタンダールを下敷きにした可能性がある。しかし、「常にはかなえられないで」以下は、スタンダールより深く、この辞書のオリジナルである。なお、上の語釈は第5版のもの。最新の版では書きかえられている。
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- 2016年01月15日 『「国語協会」が設立される(1930年 昭和5年)』
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*今日ではほとんど聞かれることのない名だが、「国語協会」は、戦前・戦中の日本で、国語改革を進めようとした団体として知られている。同協会は1930年1月15日、枢密院、貴衆両院、政党、財閥、教育、文芸などの代表者160人によって設立された半官半民の組織で、会長に近衛文麿、理事長に南弘が就任した。規約第1条に「本会ハ国語ノ整理改善ヲハカリ、ソノ促進ヲ期スル」とあることで分かるように、日本語の改良を目的としており、当時としては進歩的な考え方に立脚していた。この会は1937年6月28日に、類似の目的を持つ「国語愛護同盟」(金沢潔、河田茂ら)と「言語問題談話会」(岡倉由三郎、石黒修ら)とを併せて改組し、新「国語協会」となった(会長・近衛、副会長・南)。国語協会が活発に活動したのはそれ以後、敗戦までの期間である。現在から振り返ると、この会がしようとしたことは、戦後の国語改革(新漢字、新かなづかいなど)を数年ないし十年ほど早く実施することでしかなかったのだが、それでも、国粋主義者からは「漢字の否定、仮名遣の変革、表音文字左頭横書きを会の目的とし且つ実行し、現行国家教育に背反する思想並に行動をとりつつあ」る反国家的団体であると決めつけられ、ほとんど成果をあげることができなかった(平井昌夫『国語国字問題の歴史』参照)。
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- 2015年10月11日 『映画「そよかぜ」が公開され、挿入歌「リンゴの唄」が大ヒットする(1945 昭和20年)』
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*「赤いリンゴに くちびるよせて だまってみている 青い空 リンゴはなんにもいわないけれど‥‥」。有名な「リンゴの唄」の一節である。並木路子(1921~2001)が歌って大ヒットしたこの曲は、1945年のきょう公開された松竹映画『そよかぜ』の挿入歌だった。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正である。佐々木康監督によるこの映画は、占領軍による検閲を最初に通過した作品としても知られるが、敗戦に打ちのめされていた国民を励まそうという意図で作られたことは明白で、主演の並木がリンゴ畑や河原で「リンゴの唄」を歌うシーンは解放感と躍動感にあふれている。また短調の旋律からは哀切な感情も伝わってきて人の心をゆさぶる。8月15日からほんの2カ月後の焦土でこの映画を見た人たちがどんなになぐさめられ、励まされたかは想像に余りある。「リンゴの唄」はラジオで繰り返し流され、翌年発売されたレコードも数十万枚が売れるという、この時期としては驚異的なヒット曲となった。映画の撮影時にはまだ曲ができあがっていなかったため、並木は昭和初年に藤山一郎が歌ってヒットした「丘を越えて」を歌い、あとで「リンゴの唄」に吹き替えたという誕生秘話が残っている。最近のディズニー動画『アナと雪の女王』で、英語の「Let it go! Let it go!」を松たか子が「ありのままの(で)」と歌ったのと同じことを、日本語同士で行なっていたことになり、これまた面白いエピソードである。さて、突然だが、ここで話はヨハン・シュトラウス2世による名曲「美しく青きドナウ」に変わる。この曲ができたのは、「リンゴの唄」より80年ほど前の1867年だが、作曲の経緯を調べてみると極めて強い類似性が認められるのである。当時、シュトラウスの祖国オーストリアはプロシャとのいくさ(普墺戦争。1866年6~8月)に敗れ、多くの血が流された上、領土も奪われ、ボロボロになっていた。そんなとき、打ちひしがれたウイーン市民を元気付けようと作曲されたのが「美しく青きドナウ」だったのである。「リンゴの唄」と全く同じではないか! ちなみに「美しく‥‥」にも、こんな誕生秘話がある。初めこの曲は男性合唱曲として作られた。だが歌詞があまりよくなく、高い評価を得ることはできなかったらしい。それでも音楽そのものは素晴らしいので、のちに管弦楽曲に作り替えられ、それが定着。今ではウインナワルツを代表する曲として世界的に親しまれている。最後に、「リンゴの唄」が使われた映画『そよかぜ』の封切り日を10月10日としている資料もある。ここでは『近代日本総合年表』(岩波書店)によって11日としたが、なぜたった1日の違いが出るのか、関係者のお教えがいただければありがたい。
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- 2015年09月02日 『戦艦ミズーリ号の上で降伏文書の調印式が行なわれる(1945 昭和20年)』
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*太平洋戦争は、一般には8月15日に終わったことになっているが、日本が正式の降伏文書に調印したのは、70年前の今日、9月2日のことであった。調印式場は、東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板上にしつらえられた。日本側全権は、天皇と政府を代表する外相・重光葵(まもる)と、大本営を代表する参謀総長・梅津美治郎(よしじろう)の二人であった。この日重光は、午前3時に起床、総理官邸に向かう。そこで梅津や随員と合流し、朝食を済ませたあと午前5時官邸を出る。空襲で《見渡す限りの焼野原》になった東京の街を見ながら横浜に向かった。6時、神奈川県庁着。同45分、横浜桟橋からアメリカの駆逐艦に乗せられ、8時50分、ミズーリ号にたどり着く。調印式は9時に始まった。調印に先立ち、マッカーサーがマイクに向かい、短い演説をする。その内容を、重光は次のように要約して記している。《戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず〔しなければならない〕。世界に真の平和克復〔回復〕せられ、自由と宏量と正義の遵奉せられん〔固く守られる〕ことを期待す》。いよいよ調印である。テーブルの上に広げられた降伏文書に、まず重光が、次いで梅津が署名する。《記者〔重光〕が調印を了したのは、九時四分であった》。続いて連合国側の署名が始まり、最高司令官D・マッカーサー、アメリカ合衆国代表C・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表B・フレーザー、ソ連代表K・ヂェレヴィヤンコ以下、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表が順番に署名した。《全部の署名が終って、マッカーサー元帥は、回復せられたる平和の永続を祈って、式は終了した》。重光は再び駆逐艦で横浜桟橋に送られ、神奈川県庁を経て正午過ぎ、首相官邸に帰着している。《直〔ただち〕に総理宮〔東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)首相〕に報告を了し、昼食を了りて、一行を解散した》。以上の《 》内は『重光葵手記』(中央公論社)からの引用。〔 〕内は引用者による言い換えや補いである。ところで降伏文書の実物は日本とアメリカに1通ずつあり、それぞれ大切に保管されているが、日本のものは今、東京の外交史料館で公開されている(2015年9月12日まで)。また、調印式の模様を写した歴史的な映像はインターネットで見ることができる。全部見るにはちょっと時間が必要だが、お仕事が休みの日にでも、じっくりご覧いただきたい。