旧記事(ことば文化特設サイト)
ことば文化に関する気になるトピックを短期連載で紹介していきます。
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- 2016年04月12日 『東京大学が創設される(1877 明治10年)』
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*日本で初めての近代的大学として「東京大学」がスタートしたのは、1877年のきょう、4月12日だった。というと、「東京帝国大学」じゃないの?という人がいそうだが、そうではなく、できたての時はただの「東京大学」で、1886年に「帝国大学」、1897年に「東京帝国大学」と、次々に名称が変わっていったのである。それはともかく、東京・本郷にあるメイン・キャンパスに入り込んで四方を眺めると、くすんだ褐色のタイルを貼った古色蒼然たる建物が並び、まるで「ハリー・ポッター」の映画で見たイギリスの古い学校(あれは「パブリックスクール」と呼ばれる中等学校だが)みたいである。「歴史」を感じるなあ、と圧倒される向きもあるだろうが、イギリスみたいに古い建物ではない。実はこのキャンパスには、明治時代に一度、クラシックな建築物がズラッと建てられたのだが、1923年の関東大震災でほとんど壊滅してしまった。その復興事業として、1920年代から30年代にかけて造られたのが、いま私たちの目にする「古い」建築群なのである。しかしごく少数だが、震災を生き抜いた明治の建築が今も残る。一番目につきやすいのは、「コミュニケーションセンター」と呼ばれる「おみやげ屋」だ。有名な赤門を入ったすぐ左にある。観光客や修学旅行生を相手に、さまざまな「東大グッズ」を売っている店だから、だれでも断りなしに入れる。一見ただの瀟洒なショップだが、元は図書館の製本所だったレンガ造りの建物である。建てられたのは1910年(明治43年)ごろといわれている。……そんな東大にとって、きょう4月12日は誕生日みたいなもの。それを意識してだろう。毎年の入学式は、だいたいこの日に執り行われる。
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- 2016年04月11日 『マッカーサー元帥が解任される(1951 昭和26年)』
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*1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が暫定的な国境である北緯38度線を越えて、大韓民国(韓国)に進撃した。不意をつかれた韓国軍は総崩れとなったが、韓国を支持するアメリカが直ちに介入し、国連安全保障理事会を招集して、ソ連欠席のまま、北朝鮮に対し敵対行為の即時中止を要求する決議案を採択させた。北朝鮮軍は優勢で、6月28日、ソウル占領に成功する。これに対抗して7月には、アメリカを主力とする国連軍が組織され、日本の占領にあたっていたD.マッカーサー元帥が最高司令官に任命された。この間も北朝鮮軍の進撃はやまず、韓国・国連軍は一時、プサン(釜山)周辺に追いつめられるありさまであった。国連軍は態勢を立て直して9月15日、朝鮮半島中部のインチョン(仁川)に上陸し、ソウル奪回に成功した。これによって北朝鮮軍は南北に分断され、戦闘能力を減衰させる。10月に入ると、韓国・国連の両軍は38度線を越えて北進し、20日にピョンヤン(平壌)を占領してさらに中国国境に迫った。これを座視することができない中華人民共和国は同25日、鴨緑江を越えて人民義勇軍を送り込み、大反抗に出た。その結果、12月5日にはピョンヤンを奪回し、51年初めにはソウルをも手中に収める。しかし国連軍側の反撃も強力で、ソウルを3月に再奪回する。――「朝鮮戦争」はこのように推移したが、これ以降は膠着状態に陥った。打開を目指すマッカーサーは3月24日、中国本土爆撃も辞さずなどと声明し、戦線拡大を主張したが、ルーズベルト大統領の反対に会い、解任される。それが今から65年前の今日、1951年4月11日のことであった。16日、すべての軍務(もちろん日本の占領軍総司令官も)を解かれたマッカーサーは離日する。アメリカ連邦議会上下両院合同会議で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な文句を含む退任演説をしたのは、その3日後のことである。
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- 2016年04月10日 『ラジオドラマ「君の名は」の放送が始まる(1952 昭和27年)』
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*「君の名は」と聞くと乃木坂46が歌った「君の名は希望」を思い出す若い方も多いだろうが、今日は昭和20年代に放送され、国民的にヒットしたNHKのラジオドラマ(菊田一夫原作)のことをとり上げる。この時代はまだテレビがなく、人々はラジオで「連続放送劇」を楽しんでいた。テレビの「朝ドラ」や「大河ドラマ」の先祖筋にあたると思えばよいだろう。第2次大戦の空襲下、避難した東京・数寄屋橋(今は単なる地名だが、当時は本当に橋があった)で知り合った男女(氏家真知子と後宮春樹)が半年後にまたこの橋の上で会おうと約束して別れるが、なかなか会うことができないまま時がたち、2人の人生模様が複雑に変化してゆく様子を描いたメロドラマである。数寄屋橋の場面は、ロンドン・ウォータールー橋を舞台にした往年のイギリス映画『哀愁』(マーヴィン・ルロイ監督。ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー主演)をヒントにしたとされる。1952年4月10日から始まった放送は、54年4月8日まで2年間、98回続いたが、特に女性層に爆発的な人気を呼び、毎週木曜日午後8時半から9時までの放送時間中は銭湯の女湯が空になったという伝説があるほどである。後に大庭秀雄監督によって映画化(岸惠子、佐田啓二主演)され、「真知子巻き」というショールのかぶり方が流行になった。織井茂子が歌った主題歌「君の名は」はナツメロの名曲である。
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- 2016年04月09日 『初の「就職列車」が上野駅に着く(1939 昭和14年)』
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*「上野発の夜行列車」は、恋に破れた女性を北に運んだが、反対向きに「上野行きの夜行列車」に乗って東京の職場を目指す若者たちもいた。東北地方の学校を卒業し、首都の企業に就職した若年労働者たちである。彼らは「就職列車」という名の専用列車にすし詰めにされて運ばれた。そういう列車の運行はいつから始まったのだろう。戦後の高度成長期(1950年代半ばから70年代初めまで)のことと思われがちだが、実際は違う。その歴史は、何と第2次大戦前にさかのぼる。1939年の4月9日、秋田駅発の「少年臨時列車」が上野駅に到着、高等小学校卒業者(今の中3生と同い年)数百人が降り立ったという記録が一番古いらしい。戦後についてみると、1951年(昭和26年)3月、紡績工場などに勤める女性を乗せ、長野駅から名古屋へ向かった「織女星号」が最初の就職列車だった。また、1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森発上野行きの臨時夜行列車は、東北地方からの就職列車の戦後第1便として知られている。以上は、最近ミネルヴァ書房から出た山口覚氏の『集団就職とは何であったか――〈金の卵〉の時空間』の記述等による。『毎日新聞』2016年2月9日夕刊に載った紹介記事(大井浩一記者)は同書を、事実関係を丹念に拾い集めただけでなく、集団就職の基礎をなす「職業紹介制度」が人身売買対策として始まったことを指摘したり、県民性の演出、都市イメージの向上策といった《多様な切り口を提示し》たりした好著であると評価している。
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- 2016年04月08日 『高浜虚子が死去する(1959 昭和34年)』
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*俳句誌『ホトトギス』の発行所が東京駅前の丸ビルにあった時代がある、と聞くと驚く人が多いに違いない。俳句の雑誌というのは、主宰者の男が古女房と暮らす薄暗い木造家屋でつくられていた方が似つかわしいような気がするからだ。ところが『ホトトギス』を率いる高浜虚子は1923年(大正12年)初め、竣工したばかりの丸ビル(正式には「丸の内ビルヂング」。今の丸ビルの先代である)の一室に発行所を移すという意外な行動に出た。これには仲間の俳人たちも驚いたが、丸ビルの家主である三菱地所もびっくりして、「万事が洋式の丸ビルに飛び込んできてホントに大丈夫か?」と危ぶんだという話が伝わっている。丸ビルは階下に商業施設を入れた今風のオフィスビルの先駆けで、テナントには時代の先端を行く会社や団体ばかりを想定していたのだから、心配はもっともである。出入りする人々の大半は背広姿なのに、虚子は平然と和服でやってくる。《何だかはじめの間は私自身が不調和に感じた》(「丸の内」)というが、やがて周囲に溶け込んだらしい。虚子はこのように、人をあっと言わせるような戦略的な行動のとれる男だった。『ホトトギス』に漱石の「坊っちゃん」などの小説を載せ、文芸誌化して部数を拡大したところなどに、一種の事業家的センスを感じる。だから、東京で一番新しく、一番目立つビルに事務所を構えることによって話題を作り、雑誌の発展に結びつけようと考えるのは、ある意味で自然だったのだろう。このビジネス感覚は、今の「ヒルズ族」と同じだ。俳人にしておくにはもったいない才能である。その虚子が脳溢血のため、85年の生涯を終えたのが1959年の今日。虚子忌、また椿寿忌(ちんじゅき)ともいう。
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- 2016年04月07日 『ワーズワースが生まれる(1770 明和7年)』
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*今日はイギリスの大詩人ワーズワ―スの誕生日である。代表作の一つ「虹(The Rainbow)」は、この時節に朗唱するのに最適の詩。対訳で読んでみよう。
My heart leaps up when I behold
〔私の心は躍る、大空に〕
A rainbow in the sky:
〔虹がかかるのを見たときに。〕
So was it when my life began;
〔幼い頃もそうだった、〕
So is it now I am a man;
〔大人になった今もそうなのだ、〕
So be it when I shall grow old,
〔年老いたときでもそうありたい、〕
Or let me die!
〔でなければ、生きている意味はない!〕
The Child is father of the Man;
〔子供は大人の父親なのだ。〕
And I could wish my days to be
〔願わくば、私のこれからの一日一日が〕
Bound each to each by natural piety.
〔自然への畏敬の念によって貫かれんことを!〕(平井正穂訳)
朗読を聞きたい方はこちらで。
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- 2016年04月06日 『「サンシャイン60」が開業する(1978 昭和53年)』
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*ずっと昔からあったような気もするけれど、東京・東池袋にそびえる超高層ビル「サンシャイン60」は、1978年の今日の開業だから、その歴史はまだ40年に満たない。今のにぎわいからは想像もつかないことだが、このビルを含む複合商業施設「サンシャインシティ」の敷地周辺は1971年まで、法務省の管理する「東京拘置所」――つまり「監獄」だったのである。監獄自体は明治時代からあったが、ここがにわかに脚光を浴びたのは、第2次大戦の敗戦直後、「巣鴨プリズン」(「プリズン(prison)」は英語で「刑務所」の意)となり、東条英機元首相らA級戦犯が収容されたときである。彼らは有名な「東京裁判」(極東国際軍事裁判。市ヶ谷の現防衛省敷地内で開かれた)で裁かれ、7人が絞首刑になったが、その刑が執行されたのも、実はここ東池袋の一角だったのである。その事実をほのかに伝える石碑が、隣接する東池袋中央公園にたっている。表面には「永久平和を願って」としか彫り込まれていないこの石碑を見ても、たいていの人はそれが何だか分からないだろう。だがここは、東条らの絞首刑が執行された刑場の跡なのである。そういう暗い歴史を振り払い、この地をみんながハッピーになれる商業施設として生まれ変わらせるためには、普通のネーミングではだめで、「サンシャイン」のような底抜けに明るい名前をつける必要があったのかもしれない。
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- 2016年04月05日 『三好達治が死去する(1964 昭和39年)』
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*《あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ/うららかの跫音(あしおと)空に流れ/をりふしに瞳をあげて/翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり/み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ/廂々(ひさしひさし)に/風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば/ひとりなる/わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ》――三好達治の「甃のうへ」(第一詩集『測量船』から)である。近代の詩人でこれほど美しい詩を書いた人はあまりいないといわれる。《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》という詩「雪」(同)もこの人の作品である。今日はその達治の命日。――と、ここでやめておけばきれいに終わるのだが、もう少し続ける。こんな美しい詩を書いた人なら、きっときれいな人生を送ったに違いないとだれしもが思う。が、現実は正反対で、陸軍士官学校を退学になったり、師・萩原朔太郎の妹(写真左)にほれ、妻と離婚までして結婚するが結局逃げられてしまったりと、達治の生活ぶりは、若いころはやんちゃで、中年以降はドロドロしている。そのあたりのことはネット上の百科事典にも赤裸々に書かれているから、興味のある方はご覧いただきたい。小説で読みたいという方には、朔太郎の娘・萩原葉子が書いた『天上の花―三好達治抄―』がある。しかし、それらを読んだおかげで達治の詩の魅力がうすれてしまったなどと、苦情を言わないでいただきたい。梶井基次郎の項(2016年3月24日)でも書いたように、文学作品の値打ちは作者の顔の美醜や生き方の正邪とは無関係で、両者はむしろ矛盾することの方が多いのだから。
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- 2016年04月04日 『「琉球処分」によって沖縄県が成立する(1879 明治12年)』
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*全国47都道府県の基礎は明治の初めに築かれた。「廃藩置県」(1871年)で藩が廃止され、新たに府県が置かれたのは学校の歴史の時間で習ったとおりだが、沖縄だけは例外的な経過をたどった。江戸時代の沖縄は日本の藩ではなく、日本と中国(清)に両属する「琉球王国」だった。明治新政府はこの王国を完全な日本領とするため、1872年に無理やり「琉球藩」をつくり、国王・尚氏を「藩王」とした。1879年には沖縄でも廃藩置県を実施するとして、まず3月11日、尚氏を華族に任じて東京に在住するよう命じた。続いて日本は軍隊を派遣して首里城を接収、500年続いた琉球王国を滅ぼした。4月4日には「琉球藩」を廃し「沖縄県」を置くとの太政官布告が出た。これら一連の政治過程を日本の視点からは「琉球処分」と呼ぶ。清国はこれに激しく抗議し、長く紛争が続いたが、日清戦争で日本が勝利したため、日本の意図が貫徹された。このような沖縄県成立のいきさつは今日まで尾を引いている。沖縄人の血をひく作家の佐藤優氏は、最近、沖縄と本土との関係が非妥協的になってきたことを指摘し、それを《沖縄が他の都道府県と異なり、準国家のような存在になっている》と表現している(『週刊金曜日』2013年2月8日号)。氏はまた、那覇市が職員採用試験の面接にウチナーグチ(琉球語)を採り入れ、琉球語を使う意志を確認するようになったことを報告し、これが《全県に広がるのも時間の問題でしょう》と語っている(『毎日新聞』2013年3月31日読書欄「鼎談・日本とアメリカ」)。ちょっと大げさにいえば、これは「琉球国家語」を指向する動きである。それがよいことなのか悪いことなのかは人により、立場によって見解が異なるだろうが、いずれにせよ見過ごしにできない問題である。
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- 2016年04月02日 『「週刊朝日」「サンデー毎日」の両誌が創刊される(1922 大正11年)』
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*いま出ている日本の週刊誌で一番古いのは何かと聞かれたら、上の2誌だと答えればだいたい正しい。「だいたい」といったのは、次のような事情があるからである。『週刊朝日』と『サンデー毎日』は、ともに1922年の4月2日付けから始まっている。だから週刊誌としてのスタートはまったく同時にきられたのだが、『週刊朝日』には『旬刊朝日』という前身があり、これが同じ年の2月25日から出ていた。その事実を重視するならば、『朝日』の方が『毎日』より5週間だけ古いことになる。しかし、この時間差はさして重要ではなく、それよりも、週刊誌という新たなメディアが、大正デモクラシー下で育ってきた知的大衆の求めに応じる形で、複数の新聞社によって同時期に産み出されたという事実の方が重要である。当時は、新聞社の取材力なくして週刊誌の発行は不可能だったのである。第2次大戦後、事態が変わる。新潮社、講談社といった出版社が実力をつけ、週刊誌発行に乗り出したのである。1956年(昭和31年)に新潮社が『週刊新潮』を創刊し、59年には講談社の『週刊現代』と文芸春秋社の『週刊文春』が続く。さらに69年(昭和44年)には小学館が『週刊ポスト』を創刊して、現在の大手総合誌が出そろった。特徴的なのは、戦後派の出版社系週刊誌の方が商売がうまく、現在の発行部数を見ると、新聞社系2誌がともに10万部前後であるのに対し、出版社系4誌は50万部前後と大差がついている(日本雑誌協会の統計による)。新聞社系が比較的穏健な編集方針を持しているのに対し、出版社系が華美なグラビアやゴシップ報道など派手な誌面づくりに力を注ぎ、互いに競い合っていることが、数字になって現れているのであろう。
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- 2016年04月01日 『「漂流犬」バンちゃんが救出される(2011 平成23年)』
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*東日本大震災から3週間経った4月1日、宮城県気仙沼市沖の海上に浮かんでいた瓦礫(がれき)の上で犬が漂流しているのが発見された。犬は救助隊に保護され、報道やネットで「漂流犬」として注目された。辛いニュースが日本中を覆っていたこの時期には、数少ない明るい話題であった。発見当時、犬は2歳、体長約70センチで雑種の雌。とても元気で、飼い主が現れるのを心待ちにしているようすだった。このニュースはテレビで繰り返し放送されたため飼い主の目にとまり、首輪などから「自分の愛犬のバンでは」と連絡が来た。バンちゃんは4月4日、保護先の愛護センターを訪れた飼い主に出会うなり飛び付き、これが何よりの証拠となって無事引き渡された。この日,同センターでは震災で保護された犬約20匹も、バンちゃんの飼い主が迎えに来るのを待っていた。ほかの犬たちは、きっとバンちゃんがうらやましく、まだ飼い主に巡り会えない自分たちをさびしく思ったに違いない。実は私の愛犬もバンという名前である。もし私が大震災に遭遇したら……と考えると、犬のことがとても気になる。大災害の中で、人同士はもちろんのこと、話すことのできないペットと離れ離れになるというのは、耐えがたいことだ。はぐれても私のもとまでたどり着いてくれるか、もし私が死んでいたら、バンを助けてくれる人がいるかと、心配でならない。巡り会った命とは、人であれ犬であれ、どんな場合にも一緒にいたい。今はペット同伴用の避難セットも販売されている。いざという時のためにどんな準備が必要かを考えさせられる出来事であった。救出のようすを写したニュースフィルムが残っている。(村上明子執筆)
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- 2016年03月31日 『日本の人口が1億に達したと法務省が発表する (1966 昭和41年)』
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*この年の3月31日現在の統計で、日本の人口が1億を突破した(法務省が住民登録を元に集計し、発表)。だが昭和10年代の第2次世界大戦下にも、日本国民を指して「1億」という言い方はあった。いや満ちあふれていた。よく知られているのは「進め一億火の玉だ」というスローガンである。当時の日本本土の人口は約7千万で、「1億」は日本領だった朝鮮や台湾の人口を足したものである。だから「1億」という表現には、闇雲に一体感を強調し、異なる意見を排除して突き進むというイメージがどうしてもつきまとう。安倍政権が打ち出した「一億総活躍」というスローガンがそれである。昔のことを知っている高齢者からは「戦時中を思い出して息苦しくなる」という声が聞こえる一方、戦後派の若い人たちも「私たち、もう頑張ってるのに、まだ働けっていうの?」と違和感を表明している。安倍さんに「活躍」しろといわれても、いい働き口は限られていて、みんなが「活躍」するなんて夢のまた夢。女性が働くにはまず子どもを保育園に預けなくてはならないが、それが狭き門でなかなか入れてもらえない。ついに「保育園落ちた日本死ね!!!」というネット上の抗議まで現れる始末。以上はどちらかというと戦闘的な反応だが、「安倍さんは1億2800万の日本人のうち1億人だけがついてきてくれればいいと考え、残りの2800万人は見捨てる気だ」「おれは絶対2800万の方に入ってる」というひがみっぽい解釈もある。あなたはどちらに入ってると思いますか?
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- 2016年03月30日 『ゴッホが生まれる(1853 嘉永6年)』
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*1853年の今日オランダに生まれたゴッホは、日本とのつながりが極めて強い画家である。まず、日本人による受容の歴史が長い。大正時代(1912~1926)に白樺派の作家たちが盛んに紹介したことで、西洋を代表する画家というイメージが定着する。農村風景や農民の暮らしぶりを描いた絵が日本人好みだったこともあり、多くの愛好家が生まれた。生前の不遇な境遇、耳切り事件、ピストル自殺といった伝記の特異さもあって人気はさらに高まり、ある種の偶像としてたてまつられた感もある。板画家・棟方志功が芸術家になることを決意したとき発した言葉が「わたばゴッホになる」であったことはそれを象徴している。一方、ゴッホの側にも強い日本志向があった。日本から流出し、フランスで出回っていた浮世絵を見たゴッホは、その魅力に取りつかれ、蒐集までしていた。有名な「タンギー爺さん」の絵の背景に浮世絵を配しているほか、広重や栄泉の作品そのものを模写した絵も残されている。弟のテオにあてた手紙には「ぼくは……自然の中に没入しながらだんだん日本の画家風になっていくだろう」という記述さえあり、日本美術へのあこがれが並大抵ではなかったことをうかがわせる。再び日本人の「ゴッホ愛」に話を戻す。バブル期の1987年(昭和62年)、わが国の大手保険会社が大枚58億円(当時のレート)を投じて名作「ひまわり」を購入したことは国際的な話題となった。今その絵は東京・新宿の「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」に飾られているが、それを間近で見た筆者の感想は「これは絵じゃない!」。キャンバスの上に絵の具が盛り上がり、のたくっている「立体作品」なのである。その迫力は写真では絶対に分からない。一度出かけて本物をご覧になることをお勧めする。
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- 2016年03月29日 『立原道造が死去する(1939 昭和14年)』
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*《都築明は、去年の春私立大学の建築科を卒業してから、ある建築事務所に勤めだしていた。彼は毎日荻窪の下宿から銀座のあるビルディングの五階にあるその建築事務所へ通って来ては、きちょうめんに病院や公会堂なぞの設計に向かっていた。この一年間というもの、ときにはそんな設計のしごとに全身を奪われることはあっても、しかし彼は心からそれを楽しいと思ったことは一度もなかった》――堀辰雄の名品「菜穂子」の一節である。この「都築明」のモデルは詩人で建築家でもあった立原道造であるとされる。事実、立原は東大建築学科に丹下健三とほぼ同じ時期に在籍し、優秀な成績で卒業している。その後は建築事務所に勤めながら詩作に励んだ。だがそれは長続きしなかった。彼の胸は結核菌にむしばまれ、1939年3月29日、たった24歳でこの世を去ったのである。堀辰雄の妻・多恵子はこう書いて、その死を意義づけている。《「菜穂子」を考えあぐねている間に、この小説の中に出てくる人物都築明と思われる立原道造は他界してしまった。〔……〕立原さんが本当は相当病気が悪かったかもしれないのに、それに気づかないでいるうちに、取り返しのつかないことになってしまって、急に亡くなられたことをどんなに辰雄は悲しんでいたろう。立原さんの死に対する悲しみが辰雄にこの小説を書き上げる力を与えてくれたような気さえ私にはしてくる。そう思う時、この小説は立原道造への鎮魂歌であると思われてくる。「風立ちぬ」が婚約者への鎮魂歌であるように》(「堀辰雄抄――『菜穂子』を読んで」角川文庫『菜穂子・楡の家』所収)
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- 2016年03月28日 『東京・吾妻橋際に「ビールガーデン」が開かれる(1903 明治36年)』
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*日本人が野外でビールを楽しむようになったのは、明治の半ば以降のことのようである。東京の最初期のビヤガーデンとして有名なものの一つに、1903年、隅田川にかかる吾妻橋の東詰めに開設された「ビールガーデン」がある。吾妻橋東詰めと聞くと「ああ、あそこね」と勘づく人もおられるだろう。今そこは、ビルの屋上で巨大な「炎のオブジェ」が金色に輝く東京名所の一つ、「リバーピア吾妻橋」である。ここには墨田区役所、UR都市機構の集合住宅などと並んでアサヒビール(株)が本社を構えている。前身の会社がビヤガーデンを開いて以来100年超、ビール工場が置かれたこともあるこの地は、ずっと日本のビール産業を支えてきた。札幌、恵比寿と並ぶ「ビールの聖地」といっていいだろう。ところで余計なことだが、3月28日にビヤガーデンを開店するというのは何だか早すぎないかと、以前から思っていた。だが、桜の花の開くこの時期は空気が和らぎ、体がビールを欲するようになる、つまりビールががぜんウマくなる頃合いなのである。実際、東京の遊園地「浅草花やしき」では3月26日から4月3日まで、恒例の「夜桜ビヤガーデン」が開かれている。だから「3月28日開店」はやはり絶妙のタイミングなのであり、明治のビジネス感覚は極めて正しかったことが体感的に理解できる。
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- 2016年03月26日 『松井須磨子の「復活」公演が初日を迎える(1914 大正3年)』
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*島村抱月が、坪内逍遥率いる「文芸協会」から、女優で愛人の松井須磨子とともに飛び出し、「芸術座」を結成したのは1913年(大正2年)7月のことであった。その芸術座の3回目の公演が、翌14年3月26日に初日を迎えたトルストイ原作の『復活』である。会場は3年前に完成した帝国劇場だった。抱月が脚色し、須磨子がカチューシャ役で出演したこの公演は、質の高い演技と須磨子の美貌とが相まって爆発的なヒットとなる。帝劇での上演は3月31日で終わったが、のち全国各地を巡演。公演は440回にのぼった。特に須磨子の歌う劇中歌「カチューシャの唄」(詞・相馬御風・抱月/曲・中山晋平)に人気が集中し、「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか」という歌詞は、人々の口から口へと伝えられた。この歌は翌年レコード化され、たちまち2万枚が売れた。これは当時としては驚異的な数字である。このように順調な船出をした芸術座だったが好事魔多し、4年後の1918年(大正7年)11月、抱月が伝染病で急死、須磨子も後を追って2か月後に自殺するという大事件に見舞われる。トップ2人を失った芸術座は解散を余儀なくされ、この世から消え去った。
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- 2016年03月25日 『島崎藤村が生まれる(1872 明治5年)』
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*「『藤村(とうそん)』がどうした、『晩翠(ばんすい)』がどうした」などと言っているうち、「藤村」を「ふじむら」と言ってしまい、頭をかいたことのある人もおられるだろう。「藤村」は、きれいなペンネームではあるが、一般的な苗字にも使われる漢字だから、あまり個性的とはいえない。島崎春樹(本名)は、どうして筆名を「藤村」としたのだろう。本人は、アンケートにこたえた「雅号由来記」という書き物で、次のように解説している。《蔭の深くして多きを好めるよりおぼつかなき花のかげのたゝずまひかりに名(なづ)けて藤村といふは、たとえば庭草のしげれるほとり柄杓の水をまいても平気の平左面の皮のあつかましきを名つけて蛙といふにおなじこと、これを蛙といへばかしましくて花鳥の惜に似ず蟋蟀の韻にあらず、これを藤村といへばふみのはやしのかたすみにありてわけもなきいたずらたゞたゞ大声を発して君を驚かさんと思ふばかりにこそ》。言葉遣い、文字遣いが古いこともあるが、いくら読んでもよく分からない。紀田順一郎『ペンネームの由来事典』によると、《「明治二十四、五年ごろ、芭蕉の句にある藤の花(例「草臥(くたびれ)て宿(やど)かる比(ころ)や藤の花」など)に因んでつけた」という意味のことを記し》てもいるそうだ。だがこれも何だかあいまいである。そこで想像をたくましくする人がいて、明治女学校の教員時代に愛した生徒・佐藤輔子(すけこ)の「藤」をとったのだとか、親友だった北村透谷の「透」と「村」を組み合わせたのだとか、様々な説があり、こちらの方が面白く、本当らしくもある。そんなこんなで由来のよく分からない筆名で数々の名作を残した島崎藤村の誕生日は明治5年2月17日。今の暦では1872年3月25日にあたる。
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- 2016年03月24日 『梶井基次郎が死去する(1932 昭和7年)』
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*梶井基次郎のことを思い出すと、何だか気分が不安定になり、フワフワのソファーに座っていても、立ち上がってどこかへ移動したくなる。小説『檸檬(れもん)』の世界が醸し出す「綺麗~」な雰囲気と「あの顔」とが、どうにもアンバランスだからだ。筆者にはそこまでしか書けないが、文才のある人だとこうなる――《この世に写真がなければ、梶井基次郎は、9歳上の芥川龍之介に負けない世俗的人気を得ていたはずである。小説の価値は、顔の美醜とは関係がないことだけれども、梶井は、『檸檬』のイメージとあまりにかけ離れた醜男(ぶおとこ)であり、むしろ、それゆえに『檸檬』はきわだってくる》(嵐山光三郎『文人悪食』)。実に達者でそのとおりだが、この言い方はひどい。なお、梶井のアンバランスは念が入っていて、香水やポマードにまで及んでいる。再び嵐山の本から引用する。《梶井はフランスのウヴィガンのポマードを好んでつけている。ポマードを髪にぬり終わると香りがもったいないといって、ハンカチにうつした。このことは、梶井に惚(ほ)れられた宇野千代も、湯ヶ島温泉の宿に、「ウヴィガンの香水の空壜(あきびん)があったのを異様なこととして覚えている」と回想している》。ウヴィガン(原語は Houbigant だから、カナ表記は「ウビガン」の方がいい)は、ひょっとしたらシャネルなどより通好みのブランドで、よほどの人でないと使わない逸品だそうだ。それを昭和初年にもう使っていたというのだから、梶井はよほどのしゃれ男だったのだろう。今日は、1932年に数え年32で亡くなった梶井をしのぶ『檸檬忌』である。
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- 2016年03月23日 『「唐人お吉」が投身自殺する(1890 明治23年)』
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*小説や芝居で有名な「唐人お吉」の物語は、潤色が多く、史実からかけ離れている。そこで今日は、お吉の命日にちなみ、東大史料編纂所の教授を務めた吉田常吉氏の著書『唐人お吉 幕末外交秘史』(中公新書)によってお吉の実像に迫ってみよう――「唐人お吉」と呼ばれるようになった女性は、下田の坂下町に住む船大工・市兵衛の後家きわの娘「きち」である。きちは母とともに、船頭たちの衣服の洗濯などをして暮らす貧しい娘だった。下田に駐在した初代アメリカ総領事ハリスの病中、看護のため、奉行所によって領事館に送り込まれた1857年(安政4年)、彼女は(数え)17歳であった。きちが初めてハリスに対面したのはこの年5月22日。ハリスはきちを気に入り、泊まっていけ、というので、同道した役人たちは彼女を置いて立ち去る。ところがきちは、2日後の24日には、体に腫れ物ができているから養生するように、といわれて帰宅したきり、呼び戻されることはなかった。だから、きちがハリスと過ごしたのはたった3日間だったのである。だがその後のきちは、異人と交わった女だとして差別を受け、苦しい人生を送ることになる。横浜に出て所帯を持ったこともあるがまた下田に戻り、髪結いや小料理屋を営んだ。晩年は身を持ち崩し、酒乱の日々を送るようになり、ついに1890年の3月23日、下田郊外の稲生沢川(いのうざわがわ)に身投げをして、50歳の生涯を閉じた。その場所は今お吉ケ渕と呼ばれている。なお、きちの命日を3月27日とする説もあり、現在下田市ではその日に「お吉祭り」が行なわれている。しかし27日は、しばらく放置されていた彼女の遺体が、ようやく下田の宝福寺に葬られた日であるらしい。ここでは上記吉田本により、23日を命日とした。
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- 2016年03月21日 『物集高見「言文一致」が刊行される(1886 明治19年)』
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*〈もずめ・たかみ〉(1847~1928)は豊後(大分県)生まれの国文学者、東大教授。1886年3月21日に刊行された著書『言文一致』はその名のとおり、明治の言文一致運動を支えた理論書の一つとされる。物集は本書で《文章は、はなしを、書いたものと、いふことは、誰れでも、よく、知りてをることで、其ちがひめと、いふ所は、口から出すのと、筆から出すのとの、ちがひである》などと書いた。これについて現代の日本語学者・野村剛史氏(東大教授)は《これらは理屈の面では誤りであって、本当に「話す通りに書いた」文章がただちに口語体の「書き言葉」として通用するわけではない》と批判し、《「文章は話を書いたもの」と簡単に考えた》物集がやがて非言文一致論に転向し、《「会話文」(話し言葉)と「記録文」(書き言葉)には本質的な違いがあるので、言文一致は「会話と記録とを一にせんなど言ふが如き難事を企つる」ことになると述べるようにな》ったと指摘している(『日本語スタンダードの歴史 ミヤコ言葉から言文一致まで』岩波書店)。今日の口語文は、こうした生みの苦しみを経て確立されたのである。